
※この記事に登場する作品・媒体・書評・評論家は、すべて架空のものです。
「週刊投資文学」
★★★★★
「今年もっとも嫌な読後感を残すFX小説」
某書評ブログ
★★☆☆☆
「設定は最高。最終章は説明不足」
文芸評論家・F
「これはFX小説ではない」
元為替ディーラー・N
「聖杯が壊れたのではない。知られすぎただけだ」
社会学者・S
「全員が同じ正解を持った瞬間から、この物語は始まる」
『同じ場所で買う人々』あらすじ
ら
す
じ
ある日、
ひとつのFX手法が公開された。
ルールは単純だった。
同じチャートを見れば、
誰もが同じ場所で買い、
同じ場所で売る。
裁量はいらない。
経験もいらない。
迷う必要もない。
そして、
その手法は本当に勝てた。
最初は数十人。
次に数千人。
やがて数十万人。
個人投資家も、
専業トレーダーも、
ファンドも、
世界中の人間が同じ手法を使い始める。
「次に何を買えばいいのか」
そんなことを考える必要は、
もうなかった。
正解は、
チャートに表示される。
だが、ある日。
いつもの買いシグナルが出る。
世界中のトレーダーが、
一斉に買い注文を出した。
ところが、
いつものようには取引が成立しない。
売買は、
「買いたい」という注文だけでは成立しない。
その価格で売ってもいいという相手がいて、
初めて売買が成立する。
しかし、
誰もが同じ手法を見ていた。
誰もが、
その場所を「買い」だと判断していた。
そして、
市場に最初の異変が起きる。
「FXの聖杯が本当に存在した世界を描いた」――『週刊投資文学』★★★★★
FXを題材にした物語で、
「絶対に勝てる手法」が登場すると、
読者はだいたい先を予想する。どうせインチキなのだろう。
バックテストに細工がある。
開発者が嘘をついている。
主人公だけが騙されている。
あるいは、
最後に一度だけ大負けして、
すべてを失う。そういう話だと思って読み始める。
『同じ場所で買う人々』は、
その逃げ道を読者に与えない。この手法は、
本当に勝てる。第1章でも勝つ。
第2章でも勝つ。
第3章では、
この手法を使って負けた人間を探す方が難しい。条件が出れば買う。
別の条件が出れば売る。
誰が使っても、
ほぼ同じ結果になる。だから広がった。
広がる理由が、
きちんとあった。ここが重要である。
偽物なら、
話は簡単だ。騙されていたことに気づけばいい。
使うのをやめればいい。
だが、
本当に勝てているものを、
人は捨てられるだろうか。本書の残酷さは、
聖杯が偽物だったことではない。本物だったことだ。
そして、
本物だったからこそ、
人が集まりすぎた。★★★★★
――『週刊投資文学』
「FXで勝てる手法が見つかった世界は、思っていたより退屈だった」――某書評ブログ ★★★★☆
個人的には、
第4章までが一番好きだった。理由は簡単で、
何も起きないからである。みんな勝つ。
ただ、それだけだ。
SNSから、
「今日も負けました」という投稿が消える。FX掲示板から、
手法論争が消える。新しいインジケーターが売れなくなる。
FX教材も売れなくなる。
誰も、
次の手法を探さない。探す必要がないからだ。
本作前半で、
トレーダーたちが頻繁に使う言葉がある。「出ました?」
それだけ。
シグナルが出たか。
まだなのか。
確認するだけでいい。
相場観について語る人はいない。
上がると思う人と、
下がると思う人が言い争うこともない。全員が、
同じ答えを知っているからだ。一部の書評では、
この前半を「トレーダーの理想郷」と評している。私は逆だった。
ものすごく退屈だった。
そして、
作者はたぶん意図的に退屈に書いている。正解が一つしかない世界では、
人間は考えなくなる。最初は、
誰もが勝って喜んでいる。ところが読み進めるほど、
登場人物の違いが分からなくなっていく。全員が同じチャートを見る。
同じ場所で注文する。
同じ場所で決済する。
勝っているのに、
少しずつ人間が消えていく。その感じが、
妙に気持ち悪い。★★★★☆
――某書評ブログ
「FXの聖杯は、広まりすぎると聖杯ではなくなる」――文芸評論家・F
『同じ場所で買う人々』を、
単なる市場小説として読むことには違和感がある。為替である必要さえないからだ。
本書が描いているのは、
人間が「正解」を共有していく過程である。最初は、
正解を知っている少数者が勝つ。次に、
正解を知る者が増える。やがて、
正解を知らない者が珍しくなる。最後には、
全員が同じ正解を知っている。普通なら、
ここで話は終わる。正解が見つかった。
めでたし、めでたし。
しかし本書は、
そこから先を書く。正解と間違いを区別するものがなくなった時、
正解はまだ正解なのか。第5章以降、
聖杯は少しずつ別のものへ変わっていく。買い条件が出る。
全員が買う。
価格が上がる。
手法はまた当たる。
だから、
さらに多くの人間が信じる。次のシグナルでも、
全員が買う。また価格が上がる。
正しいから使われるのか。
使われるから正しくなるのか。
途中から、
区別できなくなる。私は第7章から、
聖杯を「予測装置」として読むのをやめた。あれは、
信仰装置である。信じる者が増えるほど、
正しさが強化される。ところが、
ほぼ全員が信じた瞬間、
その正しさを成立させていた環境そのものが壊れ始める。この作品は、
FXの聖杯について書かれた小説ではない。「全員が同じ正解を知ったらどうなるのか」
について書かれた小説である。
――文芸評論家・F
「FXの勝てる手法は、使う人が増えれば同じままではいられない」――元為替ディーラー・N
文芸評論家・F氏は、
本書を信仰や集団心理の物語として読んでいる。面白い解釈だと思う。
ただ、
少し文学にしすぎではないか。市場の側から見れば、
話はもっと単純だ。ある手法に優位性がある。
少数の人間が、
その優位性を使う。その段階では、
彼らは市場の中にいる。ところが、
利用者が増える。さらに増える。
市場参加者の相当数が、
同じ場所で同じ注文を出すようになる。そうなれば、
彼らは単に市場へ参加しているだけではない。彼ら自身の注文が、市場の動きに影響し始める。
本作の聖杯は、
ある日突然壊れたわけではない。故障したわけでもない。
知られすぎたのである。
勝てる手法はあった。
本当に機能した。
だから利用者が増えた。
利用者が増えた結果、
その手法が機能していた環境そのものが変わった。これは、
失敗した手法の話ではない。成功したから、機能しなくなった手法の話だ。
それだけで、
十分に面白い。――元為替ディーラー・N
「FXの手法を全員が信じた時、これは市場ではなく共同体になる」――社会学者・S
私は、
この小説を市場の話としては読まなかった。むしろ、
共同体が出来上がっていく話に見えた。最初は、
誰も聖杯を信じていない。結果が出る。
信じる者が増える。
さらに結果が出る。
疑う者が減る。
やがて、
疑問を持つことそのものが奇妙に見られるようになる。本書の中盤で、
手法に疑問を口にした人物が、
周囲からこう言われる。「でも、勝ってるよね?」
私は、
この言葉が一番怖かった。説明になっていないからだ。
なぜ機能しているのか。
いつまで機能するのか。
利用者が増えても同じなのか。
そういった疑問を、
「勝っている」という結果だけで封じてしまう。正しいから信じる。
信じる人が増える。
信じる人が増えた結果、
さらに正しく見える。そして、
信じない人間がほとんどいなくなる。そこで初めて、
この共同体は問題に気づく。全員が、
同じ方向を向いている。反対側に立つ人間がいない。
聖杯が世界を統一したのではない。
聖杯を信じる者しか残っていない世界を、
作ってしまったのである。――社会学者・S
「FXの聖杯が壊れる最終章には納得できない」――某書評ブログ ★★☆☆☆
ここから最終章に触れる。
未読の人は、
読まない方がいい。私は第5章終了時点なら、
この本に★★★★★をつけていた。「売る人がいなかった。」
あそこは完璧だった。
だからこそ、
最終章には納得していない。再び、
買いシグナルが出る。世界中が買う。
それまでと同じだ。
ただし、
一人だけ買い注文を出さない人物がいる。彼は待つ。
他の参加者が買う。
価格が上がる。
さらに買いが入る。
価格は上がり続ける。
そして、
十分に上昇したところで、
その人物だけが売る。問題は、
なぜ彼がそれをしたのかである。作者は説明しない。
聖杯に疑問を持った理由も、
明確には書かれない。ただ、
その直前。彼がチャートではなく、
他の参加者の注文を見ている場面がある。それだけだ。
彼が天才だったのか。
偶然だったのか。
世界中が同じ注文を出すことを利用したのか。
分からない。
他の書評では、
「説明しないからいい」と絶賛されている。私は逆だ。
一番知りたいところを書かずに終わった。
だから★2。
設定は最高。
結末は嫌い。
★★☆☆☆
――某書評ブログ
「FXの聖杯から一人だけ外れた男は、自由になったのか」――文芸評論家・F
最終章で、
一人だけ買わなかった人物について、
「なぜ売ったのか説明不足だ」
という批判がある。私は、
説明されなかったこと自体が重要だと思っている。それまでの登場人物は、
全員が同じものを見ていた。チャート。
条件。
シグナル。
そして、
同じ注文。最後の一人だけが違う。
彼が見たのは、
チャートではない。チャートを見ている人間だった。
買いシグナルそのものではなく、
「このシグナルを見た世界中の人間が、
次に何をするか」を見た。
ここで初めて、
一人の人間が手法の外へ出る。だから、
私はあの売り注文を、
単純な逆張りだとは思わない。聖杯への反抗でもない。
彼が初めて、
「シグナルが出たから」以外の理由で注文した。
それだけだ。
そして、
この世界では、
それが異常なほど大きな出来事になっている。彼だけが、
自由になった。――文芸評論家・F
「FXの聖杯を捨てたのではない。信じる人間を利用しただけだ」――社会学者・S
文芸評論家・F氏の解釈には、
賛成できない。最後の人物を、
少し美化しすぎている。彼が売って利益を得られたのは、
なぜか。他の全員が、
買っていたからだ。つまり彼は、
聖杯から完全に自由になったわけではない。聖杯を信じる人間を利用する側へ移っただけである。
世界中が同じ手法を使っている。
世界中が同じ場所で買う。
彼は、
その行動を予測して反対側へ回った。それを自由と呼ぶのは簡単だ。
だが、
彼の方法が利益を生むためには、
他の人間が聖杯を信じ続ける必要がある。さらに言えば、
彼の方法が有効だと知られたらどうなるだろう。一人が真似する。
百人が真似する。
一万人が真似する。
最後には、
世界中が、「全員が買った後に売る」
ようになるかもしれない。
その時、
彼が発見した方法も、
また機能しなくなる。聖杯から逃げたつもりで、
次の聖杯を作っただけなのかもしれない。
――社会学者・S
「FXで全員が同じ手法を使う世界に、久しぶりの売り手が現れた」――個人投資家・M
文芸評論家・F氏は「自由」と呼ぶ。
社会学者・S氏は「利用」と呼ぶ。
私は、
どちらでもいいと思う。もっと単純に読んだ。
全員が買いたい。
全員が同じ価格を見ている。
全員が同じ判断をする。
そこには、
反対意見がない。でも、
市場は本来そうではない。同じドル円を見ても、
買いたい人がいる。売りたい人がいる。
高いと思う人がいる。
安いと思う人がいる。
同じ数字を見て、
違う判断をする。だから取引が成立する。
最後の人物が売った瞬間、
久しぶりに反対意見が現れた。私は、
彼を英雄とも、
裏切り者とも思わない。彼はただ、
久しぶりに現れた売り手だった。
――個人投資家・M
「FXの聖杯は消えたのか。それとも次の聖杯が生まれただけなのか」――文芸評論家・F
最終章について、
もう一つ気になることがある。一人だけ売った人物は、
その取引に成功したように描かれている。では、
その事実が世界中に知られたらどうなるのだろう。「全員と同じ場所で買う」
のではなく、
「全員が買った後に売る」
という方法。
最初は、
彼一人だけが知っている。次に、
誰かが気づく。百人が真似する。
一万人が真似する。
そして、
また世界中が同じ場所で売り始めるかもしれない。そうなれば、
新しい手法も、
古い聖杯と同じ運命をたどる。本書には、
その先は書かれていない。だから、
最終ページの後が気になる。聖杯は、
消えたのだろうか。それとも、
次の聖杯が生まれただけなのだろうか。
――文芸評論家・F
「FXで勝てる手法とは、まだ知られていない手法のことなのか」――『週刊投資文学』最終評
『同じ場所で買う人々』を、
聖杯が壊れる物語だと評する人は多い。私は、
少し違うと思っている。聖杯は、
最初から壊れていたわけではない。本当に機能していた。
だから人が集まった。
人が集まったから、
市場が変わった。市場が変わったから、
それまで正しかったものが正しくなくなった。そして、
それに気づいた一人が反対側へ回った。おそらく、
その一人の方法も、
永遠には続かない。誰かが見つけるからだ。
見つかれば、
真似される。真似されれば、
また人が集まる。また市場が変わる。
その繰り返しなのかもしれない。
だから本書を読み終えたあと、
妙な疑問が残る。FXで勝てる手法とは、
いったい何なのだろう。永遠に機能する方法なのか。
それとも、
まだ十分な人数に知られていないものを、
私たちが一時的に「勝てる手法」と呼んでいるだけなのか。最終ページには、
一人の売り手がいる。その反対側には、
大勢の買い手がいる。ようやく、
意見が二つになった。私はそこで初めて、
『同じ場所で買う人々』
というタイトルが、
少し嫌になった。★★★★★
今年もっとも後味の悪いFX小説。
そして、
今年もっとも人に薦めたくなるFX小説。――『週刊投資文学』




で本来、FXはシンプルに勝てます【実例&証拠画像あり】のアイキャッチ画像-1024x471.jpg)
